昭和40年12月30日 朝の御理解



 昨夜、熊本の井上組の方から、三人それに古屋さんを、管理者の古屋さんを交えて、年末のご挨拶方々でしょう、見えられました。丁度夕食前でございましたから、夕食どんあげまして、一献上げながら、こういう事を云うとられます。椛目にご縁を頂いて、椛目のお仕事をさして頂く様になりましたら、今までかってない仕事が順調になってきたという。しかも次々とある仕事が。云うなら非常に割りの良い仕事。
 皆が欲しがるようなそういう仕事が次々とれまなくおかげを頂いとります。という様な話を、実例をあげて話しておられました。まあそれは此処の御用をさして頂くということから、始めの間は今まで、大体井上組は小さい仕事を沢山いく箇所にでもするという、まあ云うなら便利屋さん的な、大工さんの仕事のような感じで、ところがその、まだ一千万という様な、その一千万という様な仕事というものはです。
 今までかってした事がなかった。手広うしておるけれども、やはり生き方がですね、大きいのをどんと受ける。まあ組と、小さいのをいくつでもするといった様なと だんだん様相が変わってきた。しかもその入札なんかでいうておられるのに、始め一千万ちょっと以上ぐらいの それがまあ、私共の言葉で云うと、神ながらにですね、まあ あちらに云わすれば ふがよかってその、それが当るというようなそのおかげ。
 一回二回はです、まあさほどには感じられなかった、いやおったけれどもこりゃ金光様の仕事を、さして頂く様になってからて、口ではいよったけれどもその実感しなかったけれども、最近になって社長が申します。いよいよ椛目の仕事にです本気で実を入れにゃいけんて、こりゃ椛目の金光様の働きに違いはないというてその申しております。というて昨日云うております。それは何を皆さん、意味する事だと思われますか。
 少々 例えばこちらの方から、無理を云うてもです、その無理が聞きよい。ね、調子の何かと良い時には、人の無理でもまあ、聞けれる様にですね、調子の悪い時に、無理を云われたら、矢張り腹が立つ。そういう様な意味でです、椛目もおかげ頂いとるなら、それを受けてたたれておるところの、井上組もおかげを受けておる。そして今までかってない働きが、組の上に頂いておると。
 それが次から次とその、続いて参りますと、もうふが良かったと云う様なものではなくて、これは椛目の金光様のお仕事さして頂いとるから、違いはないと感じるようにおかげを頂いておる。それを私共は何と頂くか、椛目縁を頂いておる、いうなら信者会員一同がです、御造営という事に取り組んで、うって一願にならせて頂いておると。まあだ私共が、北京から引き上げて参りました当時までは、便所の汲み取りさんていうのは、近所のお百姓さんだった。
 そして年末ともなるとです、もち米を一年中肥やしを取らせて貰うからと云って、沢山持って見えられた。おかげで正月の餅がつけたそれを尻餅という。ところが十年経ち十五年経ちさして頂いとるうちに様相が変わってきた。その時のお百姓さんでもち米をやってからまで、肥やしはもういや金つけてくれたっちゃ、少々のこつならどうしゅうごとなかと もう此処何年かずうっと便所汲み取りさんが、久留米から来ます。
 月に恐らく、二千円で足らないでしょう。ね、もち米を持って来てでも、肥やしをもろうておったという時代から、こちらから、反対につけてやってもどうでもよい、どうでも良い、汲み手がないくらいになっておる。そこで、矢張り汲取屋さんがでけて、相当のお金をもろうて、お金を取ってその。現在汲取をやっておる。一寸の間に変わるもんじゃありますですね。
 神様と私共の関係というものを、段々分らして頂くと、まあ本当の事が分かってくるんですけれども、神様といやあ人間が頼むものと、ね、と言わば相場が決まっとった。それは一年中肥やしを汲ましてもらうなら、矢張り、それに対するところのお礼をしなければならない、という風に、以前は相場が決まっとったようにです、ところがです、これはまあ、椛目と云うた方がいいでしょう。
 椛目の最近の場合は、ちょうどその汲取屋さんのそれではないですけれど、本気で汲み取り屋さんの、汲み取って下さる人達があるならばです、向こうからもらうのじゃない、こっちからつけてでもやりたいと 云った様な働きをです、井上組の上に感じるではないですか。まして椛目にご縁を頂いておる信者、会員の上にです、特にこうしてお日参りでもさして頂いておるほどしの、御信者さん方であるとするならばです。
 沢山の人が、例えば御結界なら御結界を、便所なら便所と例えて下さる。みんなの様々な難儀な問題を、小便大便、小さい事、大きい事 ね、此処ですっかり出させて頂く様な、此処を便所代わりの様に皆さんが使われる。そこで、その便所の汲取をです、お互いがさせて頂こうという気にならなければ、いけんのじゃないでしょうか。そげな臭かこつはいや、そげな汚かこつはいや と。
 けれどもです、いわば昔の御信者さん方、と云うとおかしいですけども、そういうところをむしろよって、こちらからお金を出してからでも、熱心な人であれば、熱心な人程ね、こちらからもち米を持って行ってからでも、その肥やしをもろうて帰ろうとした。最近はこりゃ、椛目の上に様相が変わってきた。餅米をもらうだんじゃない、反対にこちらから、つけて下さろうとしておる。ね、
 おかげも付けて下さるなら、お徳もお徳も付けて下さろうとしておる。人間が神様どうぞというて願う、願っておった時代からです、現在の椛目では、神様の方がどちらかというたら、どうぞ とこういうておられる様な気がする。果たしてです、御造営の事に、いっちょ御用頂かにゃならんと思うてから、一生懸命お願いもしよる、信心もしよる、と。 そして神様は下さらん、汲取をしようとしないから下さらんのじゃ、ね、
 いうなら信心のない井上組の上にでもです、椛目のことを請け合われて、そしてそれを受けてたたれるという気になられたら、熊本のお店の上に始めの間は、只 なんとはなしに、ふが良かった程度に思っておった。次々としかも分の良い割りの良い仕事が入ってくる、というのか最近ではそれを矢張り、椛目の金光様の御用を頂いておるから、こういうおかげを頂くのだろうと。
 感じなければおられない様なかげになっておるという事はです、そういう事をです、何を それを物語っておるものか と受けてたっておるからじゃ、まして椛目にご縁を頂き、きしくも椛目の 言わば信心の中心をなされるという皆さんの上にです ね、本気で私は 汲取の御用をさして頂かなければならない。人が嫌だと思う様な、その御用をです、本気でさせて頂こうという気になれば、ね、向こうから あぁた方が、いわば持ってきてからでも それ求めてでも。
 さして頂いておったという、おるという時代から神様は いわば どうぞ汲み取ってくださいと、ね というてこちらから、汲み取り料を出してからでも、願うておられると、いった様なものをです、皆さん感じてくれないですか。いうならば、今こそ椛目のです、信心を頂いておられる方達が。今こそ徳を受ける機会であり、本当のおかげを頂かれるところの、チャンスだと私は思う。どんなに一生懸命にバタバタしても、とてもお徳なんぞと いうものをです
 それこそ大変なお徳を受けるという様なことやらはです、只、通り一辺の信心では、頂けるものではないけれども、何か知らんけれど、そういう神様が頼んででもです。汲取を願われ、そしてそれには向こうから。しりもちのちっとも持ってきてからでなからにゃ、汲み取られなかったという時代から、こちらがつけてやってでも、汲み取ってくれというておられるものをです、お互いが感じさせて頂いて、そこんところ汲取の御用をです、本気でさせて頂くと云う事になられたら ね、
 もちっとましなおかげが頂けると、私は確信致します。どうですか皆さん ね、御造営が始まった、その為の信心もさ。 そんなもんじゃないです、本気で一つ ね、汲取の御用とうけたまわらして頂きたいという おかげを頂かして頂いたらです、そっちから持ってくるこたあいらん、こっちからつけてやられる様なものをです、感じさせて頂き 頂かしてもらいながら、御造営の成就のことになってこなければならんと思うですね。
   どうぞ。